インドの旅−3
(アジャンター石窟寺院)

アジャンター石窟寺院とは
アゥランガバードのセントラルバススタンドを出たオンボロバスは100kmほどの道のりを2時間半ばかりかけて北方へと上って行きます、ワーグラー川が逆U字に180度湾曲したところに30ばかり彫られているのがアジャンタ石窟寺院です。
ここには紀元前2世紀のまだ仏像が作られない(仏像の造像は西暦1世紀頃)上座部仏教時代に修行僧が雨季を避けて修行できるように僧院と仏塔のある僧院を掘り始めた五つの石窟と5世紀に再開された大乗仏教時代の石窟が渓谷の左岸中腹に彫られています。
5世紀当時のインドはヴァーカータ帝国(グプタ朝)が黄金期を迎えていましたが、帝国が崩壊し戦乱の世になってアジャンターの石窟造営も放棄されてしまい、1千年以上も深いジャングルに埋もれていたのちに、1819年にイギリスの士官によって発見されました。
もちろん、仏教石窟として古い歴史を持っていますが、ここの石窟が有名であるのは1500年以上も前の石窟に残された壁画が今も色鮮やかに残されていることです。そして、遠くシルクロードをたどって中国に達した石窟文化は、敦煌(ドンフォアン)の莫高窟(366年前秦〜元朝の900年間)において仏教芸術を花開かせ、その壁画が我々日本人なら知らぬ人とてない法隆寺金堂の壁画(708〜715年和銅年間・原画は1949年火災で焼失)として活きているのです。
小学館発行の「原色日本の美術2法隆寺」のP.59にはこの壁画について「・・・この壁画が既に唐朝美術の影響をうけているところにある・・・。佛菩薩像の面相や体躯まで衣文につよいくまどりをほどこし、立体感をだす陰影法はほんらい中国のものでなかったらしい・・・かかる・・・画法は天竺すなわち印度の遺法であると明記している・・・、ことに現在も中印度のアジャンター壁画などにこの描法がさかんにつかわれている・・・」と解説されています。
この壮大な文化伝播の道筋は、釈迦如来という類なき仏陀を尊崇する心の伝播でもあり、我々東洋人の心の原点がアジャンターの石窟といえるでしょう。ここでは、先ず最初にアジャンターと敦煌と法隆寺の「心は一つ」といえる壁画のご紹介から始めてゆきたいと思います。
蓮華手菩薩 アジャンター第一石窟 金剛手菩薩
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中国・敦煌・莫高窟第57窟南壁の樹下説法図右脇侍菩薩 日本・法隆寺金堂壁画6号壁 勢至菩薩(部分)
左上の莫高窟には私はまだ行ってませんので、この画像は昆明以来の尊敬する朋友、安房守さんの「安房守のホームページ」http://homepage1.nifty.com/AWA/ (莫高窟の全容を知りたい方は左のURLより入ってください)よりお借りしました、敦煌では撮影禁止になっていますからこれは絵葉書をスキャニングされたもの、また右上は法隆寺で買った絵葉書からデジタルカメラで複写し、いずれも明るさを補正してあります。
アジャンターの左の画像は明るさを補正し、右側は輪郭などを補正してあります、本当はもっと暗くて足元を確認できるだけの間接照明しかありませんから、ISO800の感度とスローシャッターで写しています。壁画のある石窟のストロボ撮影は厳禁です。
洞内は1500年以上色彩を保ってこれるだけに湿気がなくて比較的一定の温度になっているようでしたが、厳重な保存方法をとっていませんから、多くの観光客の出入りによって急速に色あせてゆくように思えます。
では次に石窟文化について少し学習しておきましょう。
石窟文化について
アジアにおける石窟文化の始まりは仏教文化に他なりません、インドにおける石窟となるとお釈迦様が存命中のマガタ国の首都ラージャグリハ(現・ビハール州ラージギル、竹林精舎があった)のグリッダクータ(霊鷲=リョウジュ)山の頂上付近は説法されたところとして今なお説法台が残され、付近の岩山の割れ目などに釈迦のお弟子さんの住んだ石窟が最古のものといえるでしょう。
釈迦入滅後教団の発展とともに寺院としての機能を持った石窟が紀元前3世紀に同じビハール州ガヤー(釈迦悟りの地)付近のバラーバルやナーガールジュニの丘に仏塔を祀るチャイティヤ窟と僧の住むヴィハーラ窟が造られたのが石窟文化の始まりとなりますが、紀元前2世紀から400年間にわたって西及び南インドを中心にアジャンター・エローラとともに発展して行きました。
仏教は西北インドからガンダーラ仏教をはぐくみながら現在のアフガニスタン、パキスタンを経由して中国に伝わって行きました、これはインド僧の布教ばかりでなく法顕・玄奘・義浄に代表される経典の原本を求めつつ釈迦の聖地を巡礼する多くの中国僧と釈迦を信奉する一般大衆による文化交流の歴史でありました。シルクロードは交易の道であるとともに、仏教の道でもあり大小のオアシス国家では仏教が信奉されながら東へ東へと伝播してゆくのです。
ご存知のようにシルクロードはタクラマカン砂漠の北側(西域北道=天山南路)と南側(西域南道)を越えて行きます、南側にあるオアシス都市はスェン・ヘディン博士発見の有名な楼蘭であり、天山山脈の北を通る道は現在の新疆ウイグル自治区の省都ウルムチを通る道(天山北路)です。
そしてどちらの道も東へ進めば一つになるところが敦煌ですが、西域北道には石窟文化が伝わり、その中心となるのは亀茲国(現在の庫車=クチャ)のキジル千仏洞(中国最古・3〜4世紀)、クムトラ・クズルガハ・シムシム石窟寺院が残されています、また高昌国(現在のトルファン)に残された仏教遺跡で有名なものはベゼクリク千仏洞(9世紀〜)です。この一帯は10世紀になるとウイグル人の侵入によってイスラム教化してしまいます。
中国に仏教が伝わった記録は前漢の哀帝のとき(紀元前2年)、インドのクシャーン王朝(イラン系・中央アジアと北・中インドを支配した、3代目が有名な仏教王カニシカ)の使いが浮屠経(Buddaha=佛陀=フォウトウ)を布教に来たと「魏略」西戎伝にあるそうです、ついでに最初に仏教を信奉した中国皇帝は後漢の桓帝(在位147〜167)であったことが「後漢書」に載っているそうですが、日本の朝廷と同じく最初は不老長寿や幸福を招く教えとして現世利益を願ったものだと思われます。
このような歴史をたどりながら敦煌は東西交流の要地として仏教文化(莫高窟・楡林窟・西千仏洞)は1000年の長きに亘って花開いてゆくのです、更に石窟文化は大黄河の流れに沿い、へい(火ヘンに丙)霊寺(ここには五湖十六国時代の西秦によって424年に彫られた石窟・第169窟があり清代にいたる1500年造営され続けました)、麦積山(北魏400年代〜)、雲岡(460〜)、龍門(493〜)などの石窟へとつながってゆきます。
中国北魏・隋・唐代において、日本に伝来した仏教を通しての日中の文化交流は盛んになり、法隆寺を初めとする日本の仏教文化もまた花開いてゆきます。遠大な地理的時間的空間を隔てていても、そこに流れる心は釈迦を尊崇する心一つということに私は胸打たれます。
(この項は「仏教の来た道」鎌田茂雄著 講談社学術文庫 P.62〜第3章 石窟の浄土 を参考にしています)
2003年7月1日の日記より(アジャンターへの行き方がわかります)
アゥランガバード発8時のバスに乗って10時20分にはファルタブル村に着く(バス 55Rs=140円)ホテルアショカ(1238Rs=3157円 夕飯込み)に荷物を置いてツクツク(オート三輪タクシー・20Rs)に乗ってTポイントまで2Kmほど引き返す、ここは何十軒ものみやげ物屋が同じつくりの店で同じ商品を売っているから、売るためだけの日本語などを覚えて目の色を変えて待ち受けている。
一人の若者が客が少なかったのだろうバスを降りてからの行き帰りに付きっ切りで案内役を買って出たので押し売り撃退になった、彼にはホテルやMTDCや現地事情を色々聞いたし、リコンファームの電話を根気よく代行してくれたので便利だった、何も買わなかったのでお礼に50Rs(約120円)やったんだが、やっぱりお人好しだっただろうか?Tポイントから大型のシャトルバス(20Rs)に乗り換えて石窟まで行った。(入場料 255Rs=650円)
石窟は紀元前のものはストゥーバ(仏塔)中心で簡素だが、AC5世紀になると王侯の家臣たちが競い合って造営しただけにその華麗さはすごい、特に数々の壁画は完成当時にはどんなに素晴らしかったかと想像するだけでも楽しいものだ。第一窟は皇帝自らの造営であるからまるで宮殿の中にいるような雰囲気が漂い、本殿の両サイドにある菩薩像は正に超一級の芸術作品だと思う、エローラが彫刻の世界ならこちらは絵画の世界といえるだろう。
よくここまで保存できたと思うが、このままにしておけば急速に消滅するに違いない、かなりの湿気と水滴の漏れている所もある。
いずれも洞内はライトアップされているが壁画のある石窟は写真を写せるほどには明るくない、温度変化がどんな影響を与えるか解らないからだろう、もちろんフラッシュは化学変化を起こさせるので絶対駄目だから、DIN400・800クラスのフィルムでなければ写らない、こうしてパソコンに取り込んでみると実際に見るより写真の方が明るく鮮やかなのは不思議なことだ。今日は大汗をかきながら夕方までかかってじっくりとまわってアジャンターを堪能した。
追記:先述の若者とその友人に聞いたことですが、「日本の若い女性はインド人が大好きらしい、多くの若者がホテルへ同行し朝帰りとなる」といって笑っているのを聞いて、やっぱりこんなド田舎へ来てもそうなのかと、処々方々で聞く現代娘の大胆さにはあきれてしまいます。
アジャンター石窟の全容
ワーグラー川が方角を変える辺り、石窟群の中心部に紀元前の石窟がありますのでその部分は集団から離しておきます。また第26窟は未完成窟でありながら規模が大きく彫刻が優れていますので、ここも独立して見ていただきます。ご希望の石窟からお入りください。
画像はスライドショウになっています、ISDN・ダイヤルアップをご利用の方はダウンロードが終るのを待ってご覧願います。
自言自語(中国語=ひとりごと)
アジャンターの石窟寺院を編集していて思ったことは、仏教のアジアを覆いつくす広大無辺な広がりとそれぞれの地域によって信奉される仏教の多様さと、実践する人々のこれまた融通無碍なかかわり方、そこにはアジアの持つ特性が表現されていることに気づく。
中国という国と日本の大都会を除いた多くのアジアの国は「緑の大地」である、その日本にしても森林の被覆率は70数%で世界一ということだから,いかにアジアの国民が自然と近しい生活を送っているかということになる。
インドの郊外を通ってみれば道路は二重に並木が植えられ、並木を透かして見えるものが畑であったとしても集落は必ず森の中にある、インドの酷暑を守ってくれるのは森であり、洪水を防いでくれるのもまた樹々なのだ。
いたるところに動物が現れるのもまたインド圏の特徴である、人間がいじめたりしないことを彼らは知っているのだ、これはお釈迦さまがいじめてはいけないとおっしゃったからというものではないだろう、元来人間とはこうあるべきもの、生き物たちとの共存共栄が数千年にわたって実践されてきた姿に他ならない。
インド人はインドに生まれることによってヒンドゥ教徒になる、そこには教えもなければ戒律もない、ただひたすらに神に対して祈る心を持っているだけである、
我々日本人は明治以降西洋文明を志向して自分自らの心のありようを見失ってしまった、それゆえ子供を育てることすらできない風土に、戦前に育った老人は戸惑いつつももはやなす術を持たないし、現在社会を牽引している者はすべて物質至上主義に立っているからこの国に豊かな精神風土を呼び戻すことは至難の技だ。
幸福というものが物質的・時間的なもので計れないものであることを自覚しようがしまいが、生活そのものに宗教を持っているのはインド圏の人々である。
中国唐代の玄奘三蔵法師は「大唐西域記」のなかで『印度とは無明の長夜に、とかく煩悩の黒雲に覆われがちな真如の「月」を意味している、聖賢の遺法を受け継ぎ、凡人を導きものを治めるあり方は、ちょうど月が天下を照らすようなものであり、この意味からこの地を印度という』(この項:「仏教の源流」加藤茂著 世界書院より抜粋)とインドを評している。
死期が近くなったお釈迦様は弟子のアーナンダ(阿難)の請う最後の説法に対し「自熾燃、熾燃在法、勿他熾燃、当自帰依、帰依在法、勿他帰依」と説かれた(「長阿含経」P.41第一分・巻第二=大パリニッバーナ経=大般涅槃経 中国・宗教文化出版社)。訳してみると「自分を灯明(よりどころ)とし、法(佛の教え)を灯明(よりどころ)とし、他を灯明(よりどころ)としてはいけない」となるが、再びインドを原点としてに心身ともに「緑の大地」に子供を育てる方策を模索すべきかと思う。
次回は7月初旬に彫刻の世界・エローラ石窟へ行きます。
◎「風来坊主の旅日誌−V」表 紙へ戻る